意見書

平成19年(ワ)第279号 

原 告 XXXXXXXXX

被 告 昭和電工株式会社

意見書

2008年5月8日

新潟地方裁判所第2民事部 合議係 御中

原告ら訴訟代理人 弁護士 高島 章


第1回弁論期日に当たり,口頭で若干意見を申し上げます。

第1 迅速な裁判?

 本件訴訟を提起した(裁判所に訴状を提出した)のは,2007年4月26日です。そして,第1回口頭弁論が今日であります。どんな大きな訴訟でも1年以上弁論期日を待たされるという事態は,見たことも聞いたこともありません。

 もちろん,新潟地裁にも責任の一端はありますが,今日はその点は触れません。

 ここまで訴訟を遅滞させた一番の責任者は,被告国,具体的には,法務省です。

 最近法務省は,裁判員に関し「判決は3日程度の審理で迅速に言い渡されます」などとしきりにPRしていますが,国家賠償事件・公害事件は迅速でなくて良いのでしょうか?

 そもそも,訴訟救助に対する不服申立(抗告)など,誰にも実益がないものです。抗告がとおることで,法務省の歳入が増えるのならまだ話は分かりますが,そういうことはない。何の目的で抗告したのか,法務省自身,恐らく国民に説明できないことでしょう。「裁判遅滞が目的の抗告」などと言うつもりはありませんが,共同被告新潟県昭和電工もやらないような抗告をするなど,「迅速な裁判」の実現の一端を担うべき官庁がやるべきことではありません。

 今後は,被告国におかれても迅速な裁判に協力されるよう,切に要請します。

第2 救済?という言葉

 救済という言葉を辞書で調べてみると,以下のような解説があります。

きゅう‐さい【救済】

[名]スル1 苦しむ人を救い助けること。「難民を―する」2 神や仏の側からさしのべられる救い。キリスト教では、人間を罪や悪から解放し、真実の幸福を与えること。救い。

 水俣病「救済」とか,患者「救済」いう言葉がよく使われます。しかし,これは正しい日本語でしょうか?

 水俣病「救済」という言葉を聞くと,昭電や国は救済主(神仏)で,水俣病患者は罪人なのか,水俣病は罪業がもたらした報いなのか,昭電や国は,「義務」ではなく一方的な恩恵で(本来救われる権利のない)水俣病患者を救うのか,と考えてしまいます。

 「救済」という言葉は,法的権利義務関係を曖昧にしてしまうものでもあります。昭電と国は,不法行為に基づき被害者に損害賠償義務を負担しており,被害者は,加害者たる昭電と国に対して,損害賠償を求める権利がある。「救済」という言葉は,この関係を曖昧にします。この言葉は,誰が加害者で誰が被害者で,いくらの金額が賠償額として相当なのかという「法的思考」とは無縁です。

 ですから,私は,水俣病問題に関しては「正当な補償」という言葉を務めて使うようにしています(本当は「補償」という言葉にも問題があり,「正当な賠償」というべきなのでしょう)。

 この訴訟は,「曖昧な救済」なるものでなく,加害企業責任・国家賠償責任の履行,言い換えれば法的責任の明確化を求め,あらゆる公害を根絶し,水俣病患者への正当な補償を求めるものです。


第3 被告昭電の主張

 各被告の答弁書に対する反論は,準備書面で明らかとしますが,被告昭電の主張についてだけ触れておきます。被告昭電は,答弁書において,除斥期間の主張をしています。到底許されるものではありません。

 昭和48年の補償協定において,被告昭電(取締役社長 鈴木治雄(はるお)氏)は,

 加害者としての責任を果たすため、過去、現在および将来にわたる被害者の健康と生活上全損害をその生涯にわたり償いつづける

 と明確に約束しているのです。

 除斥期間の主張は,この協定を反故にするものであって,信義に反するものであります。鈴木治雄氏は「迷った時には、10年後にその判断がどう評価されるか、10年前ならどう受け入れられたかを考えてみればよい。」という名言を残されたと聞いています。

 被告昭電幹部は,今からでも遅くはないから,鈴木治雄氏の墓に詣でその御霊にお詫びをし,この主張を撤回すべきです。

第4 県を訴えたこと

 この第三次訴訟では新潟県を被告として訴えました。この点については,様々な評価・批判があることは承知しています。提訴前も提訴後も弁護団や関係者の間で様々な議論がありました。

 説明するまでもないことですが,原告らは,現在の新潟県・泉田知事・水俣病関係の職員を責めるために県を提訴したのではないのです。泉田知事・県職員・懇談会のメンバー等の水俣病問題解決のための努力に対し,一定の敬意を表することにやぶさかではありません。

 私たちは,水俣病発生・拡大を防止できたのにそうしなかった当時の新潟県の責任を法的に明らかにするために提訴したものです。法廷においては,原告・被告として厳しく対決することにはなりますが,裁判所という「国家のサービス」を通じて,当時の県に何ができ,何ができなかったのか歴史的真実を明らかにしていきたい。そのような意味で,新潟県は,対立当事者であると同時に事案の真相を明らかにするという点では,共同作業をすることになるのです。

第5 提訴に至る背景

 私は,1992年,弁護士登録と同時に新潟水俣病第2次弁護団に加入し,現在でも同弁護団の団員です。

 2次訴訟の第1審判決(1992年3月31日)のころ,私は,新潟地方裁判所民事部裁判官室で裁判修習を受けており,内部事情もある程度垣間見ることができました。

 この判決は,昭和電工により控訴され,1995年,村山内閣の主導によりいわゆる「政治決着」が図られました。解決金の額は260万円でした。その当時の情勢に鑑みれば,「苦渋の決断」と言うより他ないものだったかも知れません。

 この決断を「現在」という高見に立って批判することは容易いことかも知れません。しかし,水俣病関西訴訟の「最高裁判決」は村山内閣の時代には予想だにできないことだったと思います。

 この判決は,水俣病の歴史に大きな転機を与えました。2004年10月15日,最高裁はこれまでの行政認定基準を否定し,水俣病の患者さんに一人あたり約850万円の損害賠償を「国」と「チッソ」に命じたのです。

 この判決を機に,種々の事情で今まで声を上げられなかった人々が立ち上がり,九州では,1000人を超える方々が新たに訴訟を提起しました。

 このような経過で,当地新潟においても九州の動きと連動し,新潟県内における患者さんが第三次訴訟の原告となることとなりました。

 昨年から,政治や行政レベルでいろいろな動きがありました。いわゆる「与党プロジェクトチーム」による「第2の政治決着」を図ろうとする動きです。これに対する評価は様々ですが,私たち原告・弁護団から見れば,加害企業の法的責任・国の不作為に対する責任を明確にしないまま安上がりの決着を図るものであり,「お話しにならない」というしかありません。

 国(環境省)による行政認定基準(昭和52年制定)への固執や認定申請に対する長期間の放置,また,いわゆる政治解決が「お話しにならないレベル」である以上,水俣病の患者さんは,司法の場で解決を図るしかないのです。