救済?
クール・デウス・ホモ―神は何故に人間となりたまひしか (岩波文庫 青 806-3)
- 作者: 聖アンセルムス,長澤信壽
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1948/03/20
- メディア: 文庫
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きゅう‐さい【救済】
[名]スル1 苦しむ人を救い助けること。「難民を―する」2 神や仏の側からさしのべられる救い。キリスト教では、人間を罪や悪から解放し、真実の幸福を与えること。救い。
水俣病「救済」という言葉がよく使われる。私は,水俣病問題に関し,「救済」という言葉を使う際は,「いわゆる『救済』」ということにしているし,こうやって文章を書くときは,「救済」とカギ括弧を付けることにしている。
私はキリスト教徒だし,キリスト教神学は勉強しているので,「救済」という言葉を使われると,組織神学における救済論*1が頭に浮かんでしまう。
人は堕罪により,本来,その罰として地獄に行くべき存在なのだが,神は何故に,また,いかにして,罪人である人を−罰としての地獄から−救済し給うのか。古代教父神学の時代から論じられているテーマである。
私の「救済」という言葉に対して持つ感覚は狭すぎるのかも知れない。それを承知で書いているのだが,水俣病「救済」という言葉を聞くと,昭電や国は神で水俣病患者は罪人なのか,水俣病は罪がもたらした報いなのか,昭電や国は,「義務」ではなく一方的な恩恵で(本来救われる権利のない)水俣病患者を「救済」しているのか,と考えてしまう。
「救済」という言葉は,権利義務関係を曖昧にしてしまう。昭電(チッソ)と国は,不法行為に基づき被害者に損害賠償義務を負担しており,被害者は,加害者たる昭電と国に対して,損害賠償を求める権利がある。「救済」という言葉は,この関係を曖昧にする。この言葉は,誰が加害者で誰が被害者で,いくらの金額が賠償額として相当なのかという「法的思考」とは無縁である。
だから,私は,水俣病問題に関しては「正当な補償」という言葉を務めて使うようにしている(本当は「補償」という言葉にも問題があり,「正当な賠償」というべきなのだろう)。
私の言葉に対する感覚は,特殊で鋭敏なのかも知れないが,「救済」という言葉を無反省に使う人達の語感も少し問題があるように思う。